絵本を読むこと。
たぶん、これは私の育児の中で一番たくさんしてきたこと。
絵本を読み始めたきっかけ
これは、当時通っていた桶谷式の助産婦さんの言葉からでした。
「赤ちゃんにいっぱい話しかけてあげると、感情豊かないい子に育つのよ」
でもねぇ・・・。
生後3~4カ月の赤ちゃんに何話す?
「今日はいいお天気だねぇ」
その後は?無言・・・。
キャッチボールのない会話は続かない。
せいぜいそのあと「風が気持ちいいねぇ」くらいかな?
話しかけてあげる、日常会話編、撃沈。
歌?ダメダメ、私音痴だもん。
怖くて試していないけど、音楽を認識するアプリで私の歌が認識されるとは思わない。
だって、私の鼻歌で曲当てクイズが大盛り上がりしてしまうレベル!
あ、そうだ。
妊娠中に買った絵本があったな・・・。
胎教にいいとかで、お腹の赤ちゃんに数回読んだやつ。
それからは、抱っこをしながら、ベビーベッドの脇で、時には一緒に床に転がりながら。
わかっているのかどうだかもわからないまま、絵本を読む毎日が始まりました。
砂も虫も苦手。それ以上に公園や児童館でのママたちとの付き合いが苦手で引きこもりがちだった私。
大人との会話が全然ない日も少なくはありませんでした。
そんな時に手に取ったのが絵本だったのです。
上の子を一人ぼっちにしないために読む
絵本を読み始めて、2カ月ほど経ったころ。
長女が6カ月くらいになって来た頃には、好みの絵本が出て来るようになっていました。
当時は、ミッフィーの絵本や、松谷みよ子さんの赤ちゃんシリーズ。
そして、長女10カ月の頃妊娠。1歳半の頃に次女が生まれました。
ワンオペでいつも涙が溢れそうな状態での育児。
次女が泣けば、オムツ・授乳・・・いっぱいいっぱいでした。
そんなある日、授乳中に部屋の隅っこで一人お気に入りの絵本をめくっている長女が目に入りました。
私、超ヤバいコトしてる。
長女を置き去りにしてる。
「授乳時には、赤ちゃんの目を見て」とよく言われますね。
授乳は赤ちゃんとのスキンシップの時間であり、目を見てあげるのは愛情を伝える行為だと。
でも、私はそんな通説はぶち破ることにしました。
何だいそんなもの。
今大事なのって、そんなことじゃない。
「絵本、持って、こっちおいで」
私は、授乳中は長女に絵本を読む時間にしたのです。
母乳だったので、次女を抱っこしていないほうの片手は開いています。
長女を隣に座らせて、空いた片手で絵本めくるのです。
「はんたいのおっぱいだよ~」
絵本と途中で、片方のおっぱいの授乳が終われば、もう片方に移動します。
次女を抱き直している間に、長女は読みかけの絵本を持って、私の反対隣に移動します。
それからと言うもの、長女は次女が泣き始めると「おっぱい?」と私に確かめてから、にっこりとして本棚に向かうようになりました。
いいんだこれで。
絵本を読んでいる声は次女にも届いているんだもの。
目を見ていなくたって、絵本を読んでいるときの安らいだ声の方がきっと赤ちゃんのためのにもいいはず。
私は自分にそう言い聞かせることにしました。
絵本を読むのは、子供のためだけではなくて
私が、絵本ってすごいなと感じた出来事はうんと昔に遡ります。
20歳の頃。私は保育士資格は持っていませんが、保育士助手として無認可保育園で半年ほどアルバイトをしていた時期があります。
個人病院の付属保育園で年齢に関係なく20名ほどの子供たちを観ていました。
その時の保育士さん。ベテランさんです。
先生が絵本を読み始めると、泣く子もやんちゃな子もみんな黙る。
キラキラわくわくして、絵本の世界に入ってる。
プロだわ!!すごい!
私だって、傍で聞いていて子供に戻っちゃうもの。
その頃は、まだ若くて、ぎりぎり純粋に絵本の世界に入れたかも知れなかったんです。
でも、育児に追われて全く心に隙間がなくなっていた、ママになってからの私は、また違った感覚で絵本の世界に取り込まれました。
ほっと安らぐ無垢な世界。
日々の苛立ちも、忙しさも、世の中の面倒も。
「そうばかりじゃないでしょ?」と、きれいなものを見せてくれる。
大人だから感じるであろう、その世界に潜む切なさや、逆に忘れていた温かさや。
これ、泣く本か? と言う絵本にも関わらず、長女にティッシュを差し出されたことも数回ではありません。
子供のために読みながら、私は私自身を癒していたのかも知れません。
そうして泣きながら絵本を読む時期を超えて、初めてやっと、単純に子供と絵本を愉しむ時期がやって来た気がします。
丁度その頃には、次女もちょっぴり大きくなり、おっぱいは卒業していました。
心地よく眠る前のお楽しみ
次女が卒乳してからは、毎日寝る前に絵本を読む習慣が出来ていました。
きっかけは、寝かしつけに疲れた、と言うのがママの本音。
添い寝してとんとんして寝るのを待つ・・・辛い、ダルい、寝ないとイライラする。
不思議と、絵本を読んでいる時間と言うのは、読む側の私もゆったりした気分になれます。
本を読んで、親子ともに一日をクールダウンして、絵本の世界でしばしくつろいで一日を締めくくる。
読み終わって、絵本をぱたんと閉じて「さて、ねよっか」。
子供たちも満足していて、時には絵本のセリフを真似したりしながら笑い合い、眠りにつく。
最初はそれぞれ好きな本を1冊ずつ選んでベッドに入っていましたが、いつのころからか2冊ずつになりました。
私を真ん中にして両サイドに子供たちが座って。
合計4冊の絵本を読んで、おやすみ。
これは、次女が幼稚園を卒園するまで(長女は小学校2年生まで)続きました。
どんな風に読んだっていい
唐突ですが、キティちゃんに口がないのはなぜだか知ってますか?
あれは、口がないことで手に取る人それぞれがキティちゃんの表情をどうにでも想像できるかららしいのです。
うれしそうにも、悲しそうにも取ることができる。
口がないことで手に取る人の心の在りように、寄り添ってくれるのだそうです。
絵本もそんな側面があると思います。
例えば、「おいしいね」と言う言葉。
書くだけでは、お い し い ね 、だけど。
口に出すときは色んな言い方がある。
うんといい味で嬉しい時、あまり好きじゃないけどおいしいって言っとかなくちゃ、まぁまぁおいしいかな、などなど。
1冊の絵本が、とてもスリリングでわくわくするものか、しっとりと優しい空間を作るのか、教訓的なものになるのか。
それは、読み手の読み方ひとつで、または受け取り手の心情で変わってきます。
たぶん、プロでない私は、同じ絵本を幾度となく読んでも一度たりとも同じ世界を作り上げていたことはないでしょう。
また、時に、奥深い絵本は何度読んでも違う感想を持たせてくれるし、解釈なんてことを考えてしまうとどう読んでいいのか悩んでしまう。
だから、最後に行きついた答えは
「好きに読めよ!」 です。
毎回違ってもいいじゃん。
「にんげんだもの」です。
きっと、そのニュアンスの違いさえ、子供は拾い上げて、ママを見てくれる。
例え、私が読んでいる最中に泣き出しても。
それをどうしてなのか尋ねる語彙も、心情を理解するほどの人生経験が無くても、ただ純粋にこぼれ落ちた涙をぬぐってくれるのです。
最後に
長女が大学受験を目前に、言ってくれたことがあります。
ママが小さい頃たくさん絵本を読んでくれて良かった、と。
彼女は活字中毒と言っていいほど本の虫です。
読書量も多いし、ちゃんと全部読んでる?内容わかったの?と思うほど読む速度も速く、とにかく本が好きです。
そんな彼女の偏差値を支えてくれるのは国語の点数のおかげと言うくらい。でも、国語はほとんど勉強していない。
国語の勉強に時間を使わなくて済むから助かった、と。
「ママが、本を読む楽しさを教えてくれたから」
だそうです。
意外な副産物でした。
あと1週間ほどで長女が帰省して来ます。
子供の頃のように、3人並んで懐かしい絵本を読んでみるのもいいかも知れません。
長女が生まれて初めて買って欲しいと店でひっくり返って泣いたのは絵本でした
ワンオペ時代に涙が止まらなかった絵本。
そして、これも、私の泣き絵本。
子供たちは楽しそうに読んでいました。
その昔、絵本ブログを書いていたデータはどこへ行ったかな・・・。
かつての育児日記のようなブログでした。
探してみようかな。
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